アイシンク建築事務所
BIM ( Building Information Modeling / Revit ) Design



     




Free to attend, Free to explore, Free to create, Free to play|Yamagishi Hiroyuki 2017.3.21

 Baltic Street Adventure Playground

An environment where children are allowed to play freely, without external goal or motivation, with support but without interference. It is a place where children's play is guided by their own needs, curiosities and fears.
子どもたちが目標や動機を持たずに自由に遊べる場所です。子どもたちの遊びは、自身の要求、好奇心、恐怖に誘惑されます。

We understand that this kind of play can involve children challenging themselves, exploring their limits, and taking risks. Aside from the innate pleasure and satisfaction this kind of play can bring, it can also an important part of children's development, giving them opportunities to make independent decisions, think on their feet, balance risk and reward, and learn to take ownership and responsibility for their actions. They also learn to look out for each other, negotiate potentially complicated situations, and share what they have learnt through trial and error. These kinds of opportunities are increasingly rare in many children's lives.
私たちは、この手の遊びで、自分自身に挑戦し、自分の限界を探り、リスクを冒す子どもたちを巻き込むことができることを理解しています。この手の遊びは、生まれつきの喜びと満足のほかに、子どもの発達の大事な部分でもあり、独立した意思表示、機転を利かせ、危険と褒美のバランスをとる機会を与え、自分の行動に対する主張と責任を取ることを学びます。彼らはまた、お互いを眺め、潜在的に複雑な状況を工夫し、試行錯誤を通じて得たことを分かち合うことを学びます。このような機会は、多くの子供の生活のなかでは、まだまだ稀です。
Equally important to developing these kinds of skills however, are self-confidence, emotional resilience and independence. Children need to feel reasonably safe to play freely, and to make this happen, the emotional and social environment is just as important as the physical one.
しかし、これらのスキルを成長させることと同様に重要なのは、自信、情緒的な回復力と独立心です。子どもたちは自由に遊ぶことがじゅうぶんに安全であると感じることが必要であり、これを実現させるためには、感情的にも社会的環境にも物理的環境と同様に大切なことです。  

iSUTANBUL 2020Yamagishi Hiroyuki 2015.12.21

 2020年オリンピックの開催地は、トルコ共和国のイスタンブルにすべきだったと思います。イスラム圏ではじめてのオリンピック開催になり、アジアとヨーロッパにまたがる海峡都市は、いまの世界情勢を考えるうえで地理的にも意義のある選択地であったはずです。それが東京に決まってしまった。フクシマがアンダーコントロールされているということで。
  オリンピック誘致を有利にするために、各候補都市は低予算を競いつつ、環境に配慮することをアピールする。しかし超過費用はすべて都市と国が負担することになります。競技場の建て替えに1400億円もの予算が充てられるが、2500億円にはね上がるとか、それが白紙に戻るとか、すべての施設で1兆円を超えてしまうとか、納税者としては今から不安でなりません。それだけの巨額の費用と人手が、あの原発事故の後始末の足をどれだけ引っぱることになるのか、想像に耐えがたい。2020年開催に際して、わたしたちは早くも新国立競技場で60億円のペナルティを支払った。エンブレムでも数億円単位の損失を無責任に浪費してしまった。これから先も何やらふしぎな嵐が来そうな嫌な予感がします。オリンピックが平和の祭典と叫ぶなら、その平穏な日々を必要としている場所で、必要としている人々といっしょに、平和に向かっていっしょの目的をもつことが大切な出来事ではないでしょうか。
 オリンピックのための施設工事にとられる予算と人手がどれほどにフクシマの復興を遅らせることを考えると、2020年はイスラム圏ではじめてのオリンピック開催とすることにより、東京オリンピックを白紙に戻すという大英断は、もはや考えられないでしょうか。

開幕前夜Yamagishi Hiroyuki 2014.6.13
Give Peace A Chance
 
 夢のような理想が掲げられた—戦争の放棄—これがわれわれの国の憲法です。徹底的な非武装、非戦の決意です。武力を持たないことは、つまり丸腰だということです。戦力の不保持はすばらしい、この理想を追求すべきだと思う。この不戦の理想を守るために我が身も犠牲になれるのか!
 政治とは政策であると同時にイメージ操作であるという。今の時代、その傾向はいよいよ強い。活字よりは音声、理屈よりは印象、思考よりは気分が優先される時代。無知は力であるの世界が拡がる中で、真っ向から闘おうとしない人ほど受け身になっていく。人は弱いから群れるんじゃなくて、群れるから弱くなるのだとする。
 頼りない個の肉体は相手にもされず、徹底的に、いまは人間が侮辱される時代になっている。人間が、お互い、無意識に侮辱しあっている。そういう敬いのない世の中ができてしまった。それなのに、侮辱と軽蔑の時代になっているのだという自覚が持てていない。
 人間はここまで貶められ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか(詩人 辺見庸談)こうした辱めを受けている実感が「個」に、はたしてあるのだろうか。
 戦場には殺される危険と同時に殺さなければならない危険もある。その心の傷はとても深い。あなたには見ず知らずの人間に、武器を向けられるのか?まさに目前にまだ見たことのない暴挙の時代が迫りつつある。いまの流れでは、どのみち戦争になるだろうことは予感できる。追い詰められた状況のなかで、「個」としてどんな論戦ができるのか、抵抗ができるのか、最前線で激論ができるのか、ふざけるなと叫べるのか。それがいま、一人ひとりに問われている。非武装反戦でなにが悪いのかと言い続けられるのか?いずれ決断を迫られるときがすぐにでもやって来る!

静かな怒りにYamagishi Hiroyuki 2013.4.1
To Peaceful Wish
 
 怒りの声が氾濫している。感じ合うとか理解するとか、対話するか抗議するか、どうやったら伝わるのか私たちは言葉で言えばいいと思っている。ただそれだけでは伝わらないのです。
 インド建国の父、マハトーマ・ガンディーは、敵意や怒りを乗り越えることを望んだ。
" 真に勇敢であるならば、そこには敵意、怒り、不信、死や肉体的苦痛への恐れは存在しない。このような本質的な特性を欠いている人々は、非暴力ではない。"
 大切なことは、非暴力という行為を通じて自己変革を行ない、その行為によって他者に潜む何者かを引き出すことによって、対峙する他者の魂を揺り動かすことである。
 これからも今にも増して深刻な絶望が待ち受けているだろう。絶望的な政治家が、経営者が、学者が絶望的な施策をくりかえすことだろう。
 言葉の暴力による怒りの声も、物理的な暴力とさほど変わりない。ましてや言葉によって他者が傷つくことがわかっている抗議は、敵対を招くばかりである。
 自分の主張が他者を傷つけ、対立を煽るような行動から一歩でも乗り越えられる世界に近づくことができるのか、恐らく絶望的な試練ではないだろうか。
 しかし、暴力的な手段を使わずに行動するすることに苛立ちを覚えるのは、それは恐らくわれわれの魂が変革されていないからだろう。
 しかし、しかし、あらためて怒りの声を静かな祈りにも似た怒りに変えてみてもいいのではないか。そこからはじまることが、おそらくここから前に進む変革の兆しではないのか。

認識と思考Yamagishi Hiroyuki 2011.12.31
Cognition and Thinking
 
 2011年、北アフリカの一国チュニジアで起こった民主化運動は、この国にとどまらず、エジプト・リビアなどの他のアラブ諸国へも拡がった。チュニジアの民主化運動は、ジャスミン革命と呼ばれ、一連の暴動では情報共有のため、Facebook,Twitterなどを通じた情報交換もあいまって、普通の市民「小さな人間」が持っている力を示した運動であった。
 人間の精神の中で大事なものに、認識と思考があると思うのです。「小さな人間」には戦争や紛争を起こす力はありませんが、それを止められる力は持っています。
 事象をできるかぎり正確に、主観を入れずに客観的に見さだめる認識が正確でないと物事を動かせない。しかし、認識だけでは行動は起こせない。認識の上に組み立てる思考が大切になる。これは自由でないといけない。冷静に物事を見さだめる。その認識をもとにして自由に物事を発想する。認識は地道な努力の積み重ねによって作っていく。しかし、視野は広く上を向いて大空を見つめている。この二つのことが形成されるとき、人間の思考は自由に、すばらしいことを考えるとができる。
 権力や独裁者がいくら戦争をしかけても、「小さな人間」が動かないことには紛争にはならない。「小さな人間」が自分たちの力を信じて戦争や紛争に反対するかぎり、戦争はけっして起こらない。あるいは紛争をやめさせることができる。その認識の上に、どのような行動を起こしたらよいのかという思考の柔軟さ、思想の自由がもっともっと求められている今です。
(小さな人間の位置から 小田実著参考)

院内町の石橋Yamagishi Hiroyuki 2010.01.01
 
 数年まえの焼酎のテレビコマーシャルの「水のある風景」が印象にのこっていた。一昨年その新シリーズの麦焼酎「二階堂」のコマーシャルを見てふたたび思い出した。大分県の酒造メーカーのCMは記憶に残る映像とナレーションだった。CMにも流れた水道橋を含め九州には約970基の石橋が現存する。そのうち大分県に石のアーチ橋(眼鏡橋)497基があるそうな。大分県に石橋が多いのは、深い谷や山々が連なる険しい地域が続き、木橋では急な川の流れにより大雨に流されてしまうからといわれている。阿蘇の噴火によって噴出した溶岩から形成された溶結凝灰岩が大量にあり、この加工しやすい石材により傾斜地の棚田の石垣や灌漑を行なうための水路を築く石工技術が発達し、優秀な技術を持った多数の石工や技師たちを育てた背景がある。
 大分県宇佐市院内町には、町内を流れる恵良川水系に74基の石橋が存在し、日本一の石橋の町と呼ばれている。昨年三月に宇佐市を訪れた折りにわずか半日で大小様々の10カ所の石橋を渡ることができた。最後に訪れた石橋は山里の小川の両側に田園が広がるのどかな風景のなかに架けられていた。院内町「道の駅」にあった町内の石橋の解説板のなかに、国の登録有形文化財と記された小さな石橋が数十メートルのアーチ橋と並んで掲示されていたので、ぜひ実際の姿を見てみたいと思い立った。アーチ橋はまず橋を支える下橋(支保工)を木材で造る。石橋はその重量に耐えられる川底の岩盤探しから始まり、木材で造るカーブに合わせて下から輪石を積んでいき、最後に真ん中上段の要石を入れる。その後、上から一段づつ下橋をはずしていく。寸分の狂いが橋づくりに大きな影響を与える。石工たちの技術がこの小さな石橋(念仏橋)にも注がれている。
 大分県にはそそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された磨崖仏(まがいぶつ)とともに石文化が築きあげられた。ヨーロッパには古いドームやアーチの建造物がたくさん残っているが、日本にも立派な石工たちの技があり、その姿に触れたことは感動的であった。
LinkIcon二階堂酒造LinkIcon院内町の石橋LinkIcon大分の眼鏡橋

nennbutubashi
念仏橋(大分県宇佐市院内町

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